満43歳になりました・・。

昭和48年12月12日・水曜日。

当店は「この地で開店しました」。

開業は「この年の4月」。私は小学4年生でした。

 

訳あって・・・

サラリーマンの父が脱サラして開業するまでが 確か「正味半月」だったと憶えています。

冷静に見ると「今でもムチャクチャな話し」です。

でも、そうせざる得ない選択とは「仕事と得意先と売り上げは この時点で保証されていた」事で

踏み切ったと今でも思っています。

子供というのは解らない事でも「親が岐路と窮地に立っていると・・」いう事を隠す事無く

「私ら兄弟三人を座らせて」父が 滔々と説明し「一緒に手伝ってくれ」

と語った姿は今でも忘れる事はありません。

 

今でこそ・・

住宅街になった この場所も建設を始めた当時は「野中の一軒屋」。

親族でさえ「こんな所で店を張って大丈夫なのか ??」と心配してくれたのは

しごく当然の事だったかと思います。

本業があって「倉庫と事務所に販売店舗を併設する」という背景には「ココは住宅街になる、しいては小売りの需要も見込める」という読みもあった様ですが、

開店したての頃は「街灯も無く夜は真っ暗。脇道は舗装もされてなくて凍結すると泥だらけ。

また、この年は特に寒く・雪も多く」そんな中で開店を迎えました。

学校からの帰り道で「ウチの開店祝儀の洗面器」を抱えた人・人・人にすれ違って

子供心にも「なんか ホッ・・」とした事を憶えています。

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開店してからは・・

とにかく忙しい店・・で、「休みは元旦だけ」、「参観日も来てもらった憶えが無い」し

それが当たり前。

私は長男でしたから「継ぐのは当たり前」と親も周囲も思っていた様ですが、

対人関係が苦手で 「手に職を付けて技術で勝負できる職人さんになって

無口でも技術を評価してくれる場所で自分を創りたい」と思ってる かなりの変わり者

だったかと・・。

 

それが・・

丁稚奉公として就職・修行して「見方・考え方・大きな取り引き相手と世間」を田舎の

会社でありながら体験させて頂いた事は感謝しかありません。

 

家業に入ってからも・・・

大きな危機が少なくとも二回はありました。

家に戻って間もなく「近くに中規模のSM」がデキて、それまでの近所のお客様は「ヨロズヤ的な要素を持った当店」を必要としなくなりました。大店法の改正もありましたから「この分野には魅力も未練もありません」でしたが 現実的な売り上げの激減は「親の肝を冷やすのには充分」だった様です。

運良く ??・・

二年程で「酒販免許を取得」できて 何の保証も無いのに家族で安堵した事を憶えています。

結果的に「良い縁と得意先に恵まれた」事で斜陽であるハズの「小売り酒販業」が 我が家に限っては

好調でした。更に・・台頭してきた「Dsを仕入れ先に据えた事」により「仕入れ価格を更に押さえる」

事が出来て「こんなバカな事は いつもまでも続かないぞ・・」と思っていたら・・。

 

二回目がやってきました・・・

得意先上位三者が相次いで「取り引きの打ち切り」を通告してきました。

単純に「売り上げが40%減」になる数字ですが 私の感覚としては「俺はコレで変われるかも」でした。

 

結果として「すべて打ち切りは白紙」になりましたが この時 打ち出した「信州の地酒路線」
で現在がある訳ですから不思議です。

ビンチでも「変に感情的にのめり込まない」。

「どこか俯瞰で自分も相手も見ている・・」。

その原点は「無借金の健全財務」という 「良しか ? 悪しか ?」今でも判断デキナイ部分の継続で

43年を迎える事が出来たかと「父に感謝・お客様に感謝・たまたまの運に感謝」しかありません。

 

さて、当面は「44歳を迎える事」に全力を傾ける師走の戸張の中。

記念日・・

には、ケーキを家族で食べるを決めてる事を 子供達もウスウス気が付いている中で

「今日は何の日」と言われた時に「胸を張って言い続ける事」が「とうちゃんの役割」な

気がしてますが・・・。